その他歴史的文書 No.2 |
現代革命論としての構造改良論(完) 日本構造改良各派の総括とその批判 勝部 元 (初出 季刊構造改良 第6号 1972年2月5日) |
はじめにのべたように、日本構改派各グループの政治指導者自身によるみずからの軌跡の総括は、まことに乏しいし、したがって解体・蒸発した各政治セクトの再生も、まだ本格的に日程にのぼってはいない。 まず離党の中心人物であり、旧社革→統社同→統一有志会の道をたどり共労党に参加した春日庄次郎氏(1)はつぎのようにのべている。 「イタリアのいわゆる構造改革路線というものは、イタリア以上に日本では、構造改革というものをひとつの路線にまとめあげ過ぎたのです。そのとき、やっぱり日本マルクス主義のひとつの欠陥なんだけれど、外国の理論とか運動の経験とかを、それが背負っている運動の歴史的な背景や基盤というものと引き離して、その結果だけを、直輸入してくる。そこで、イタリアの構造改革路線を実現し得るための大衆的な基盤、闘争の蓄積、そういうものは捨象されてしまって、路線だけが入ってくるということになる。 イタリアでは、反ファッショ闘争で武力闘争もやって、なん百万という党員をかかえている。戦闘的な労働組合の基盤がある。そういう主体的条件が日本にはない。したがって路線の展開については、運動を下から支えていく闘いを組まなければ、路線だけしくというと、修正主義か、右翼日和見主義におちてしまう可能性があるという点は、ぼくらのような実践活動の経験のあるものにとっては、かなり疑問があった。それが、われわれが代々木共産党を離れ、社会主義革新道動を通じて、統一社会主義同盟を形成するなかで、そういう欠陥は、しだいに露出されてきたと思います。自らその路線を実践的に展開する大衆運動的基盤というものを、開拓しないで、それは社会党に依存してしまうということになるのでは、結局、構造改革路線というのは、社会党でもやっていけるということになるので、構造改革についての、こういう理解は、おのずから【構造改革路線というものが、革命党の革命路線ではないことを示すもので、日本の構造改革路線といい、構革派というものが、イタリア共産党の路線と質的に違ったものであることを示すものです。」(『日本共産党史---私の証言』 日本出版センター、二九〇ページ) かれが離党当初いだいた雄大な構想--ひろく党内外の革新的分子を結集し、革新戦線の統一を促進する--は、実現の可能性をもったものとして洋々たる前途を展望させていた。けだし、当時日共の誤った路線と官僚主義的体質にあいそをつかし、それから離れて個々ばらばらの状態にありながら良心的革命的精神を失っていないノンセクトの革新的分子が一〇〇万人は存在していたと思われるし、またこれを反独占構造改良の旗、社会主義革命の旗の下に結集し、社・共をふくむ反独占フロントにまとめあげることは、絶対不可能だったとはいえなかっただろう。残念なことに、このとき独自の主体と大衆運動形成の努力がはらわれず、「社会党なだれこみ」方式の中に、「政策提起集団」、「理論切りうり屋」として自己崩壊をとげてしまったことは、春日氏にとってはこの運動の総帥として、この十年を回顧して感慨無量であったであろう。筆者もまた、構改派理論家のはしくれとして、自己の責任を痛感している。もしヨーロッパの例でいうなら、日本構改派がイギリスのニュー・レフトの方向でなく、フランスのPSUの方向に舵をとっていたなら、事態はことなった状態となっていたかもしれない。PSUと五八年五月革命の場合のように六八、六九年の学生大衆の大激動に、賢明に対処し、この政治的エネルギーを空転させることなく(2)、自己の財産として定着する道もまた不可能であったとは思われない。 (1)尊敬する日本革命運動の大先輩、春日庄次郎氏(「われわれは新左翼・反戦派の潮流にわれわれの立場・足場をおいている」『現代民主主義会報』第十八号)を始め、山田六左衛門氏、亀山幸三氏(「いいだ・もも、武藤一羊らはべ平連や学生運動(全共闘系)と共同する方向で闘って(いわゆる三派系の一翼)いるが、わたくしは、今は、ややそれに近い立場にある」『再建闘争ニュース』七一年五月二五日号)らが今なお新左翼の青年たちに一種の希望を託していられる姿は、いたましく心うつ。わたくしをふくめ周辺の人々の責任、人間的信頼、ヒューマニズムの欠如にも問題があろう。わたくしもまたつねに青年に賭けてきたものの一人だが今のままのべ平連や新左翼系学生運動からは、マルクス主義の新しい潮流が生まれるとは到底思えない。その点ではわたくしは懐疑的である。かけるべきは新左翼に同調できずしかもなお知性と行動への意欲を失っていないこれからの青年、学生大衆と労働者青年大衆であろう。 なお現在、現代民主主義研究会(機関紙『現代革命と民主主義』)という小グループによっている春日庄次郎氏は、私信によれば「構革派とは何であったか、何をしようとし、どこで間違い、何故現状のようになったか」についての「批判的総括」をまとめていられるようなので大いに期待している。 (2)ただ大森、松葉、小寺山氏ら中間派グループの批判--「ここ数年間の階級闘争の総体としての性格をただ観念的な『革命的幻想』としてしかみぬくことができない」「この数年間の階級闘争の自然発生的昂揚にたいするただ観念的反発」にとどまっているという批判にたいしては、本誌第三号の巻頭言の反批判につきているので、ここではもうあまり付言しまい。闘争そのもの、大衆的昂揚そのものを全面的に否定するのではなく、それを高く買い、それを高く評価するが故に、その政治指導者の知的道徳的へゲモニー、闘争の指導に失敗し、大衆のエネルギーを空転させた政治的責任をきびしく問い、大衆の昂揚とその政治指導を区別し、誤った指導にたいし、客観的批判を対置するのである。わたくしの批判の論調が、「甘ったれて傷をなめ合う人々」にたいし鋭いとするならば、日本の戦後の政治史を特徴づける一本の赤い糸--またしても「指導の失敗」が大衆のエネルギーを空費させ(二・一ストをさかいに四六-七年の政治情勢をみよ、四九年夏の空転させられた政治危機をみよ、近くは六〇年の安保闘争を想起せよ!)だ、という骨をけずるような痛恨からである。 第二は内藤知周氏の手になる「共労党についての総括」である。内藤氏は七〇年二月共労党第四回大会で指導部と絶縁した経過をのべ、その理由として、「この指導部がマルクス・レーニン主義とは全く無縁な、無政府主義思想に転落し、その『現代世界革命戦略』による左翼急進主義戟術は、わが国の労働運動・社会主義運動に重大な損失をもたらすことがあきらかであり、しかも、この一年の状況を見ると、もはやこの党の内部革新も絶望的となったと判断せざるをえなかったからである。…‥・こんにちの無政府主義思想は、現代資本主義の発展がもたらした大衆の疎外感を基礎としている。そして、この疎外感を、われわれが階級闘争のエネルギーへと組織することができず、無政府主義的行動への暴走を許してしまったところには、現代資本主義と対決する労働運動を、真に階級的な立場から発展させることのできなかった、われわれ自身の責任がある。」(『労働者党通信』第七号、労働者党全国協議会)とのべている。 内藤氏はこの文書でさらに共労党の結党過程とその変質過程をかんたんに叙述しているが、社革派日本構改派の根本的欠陥としてつぎのように自己批判している。 「社革は、六〇年安保・三池闘争の総括過程で、代々木の民族主義・議会主義・教条主義・官僚主義を批判し、平和共存・反独占民主改革・社会主義革命の綱領のもとに結集した共産主義者によって組織された。しかし、この綱領実現のためには、職場を基礎に、この運動を担う独自の党組織を必要とするという主流と、構造改革の政策提起・運動展開を重視し、そのための活動家集団を志向する統社同も後に、その政策提起集団的性格を自己批判し、独自の党建設の課題を提起するにいたるが、他方、独自の党を主張した社革も、客観的には独自の運動を組織しえず、いずれも、いわゆる『構革派』の運動は、社会党の運動に吸収され、その右傾化の武器とされた。 社革にしても、統社同にしても、とくに社革の場合には、その構革論が社会民主主義者のそれと異なることを建前として強調したが、そのようなものとして独自の運動を組織しえなかった。この点の弱さこそ、共労党内における『構革派の自己止揚』と、実践に裏づけられた理論をもってたたかいえなかった原因であり、この点の自己批判こそ、再出発に当って決定的な意義をもつであろう。」(同上) このような春日、内藤氏らの総括と社運研の森永、『現代の理論』の安東仁兵衛氏のそれはいささかことなっており、さらに統社同中間派!小寺山、松葉氏らの統一労働者同盟(準)の文書はさらにおもむきをことにしている。 そこでつぎに社運研森永栄悦氏の総括から---構革路線が十年にして社会党内に定着しえず、党内ヘゲモニーを確立しえなかったこせの責任を明らかにした上でかれは、社会党構革派の果たした積極的役割としてつぎのようにいう。 「高度資本主義国における現代革命の総路線を提起することによって、従来の社会主義運動のあり方、社会主義運動の総路線の方向転換をはかろうとした点にあると思う。」(『現代社会主義』「日本社会党と構造改革論」一九七〇年十月号三ページ) かれの理解によれば、構革派のメリットは、労農派マルクス主義に典型的な「教義布教的思想運動社会主義」運動−勤労者を一人一人獲得してゆく方法、「大衆運動はもともと日常的要求を獲得するところに意義があるのではな〈、大衆を体制の厚い壁にぶっつけることによって、社会主義意識にめざめさせていくところに最大の意義がある」というものーとことなった構改型の社会主義運動をおしだした点にある。かれによればこの新しい社会主義運動は、「大衆の要求の『社会主義化』と社会主義を大衆、の『要求化』するための中間目標の設定と、それを媒介として社会主義に接近するという構造改革戦略」(同上)にあった。 そこで構革論とは、森永氏らにあっては、「思想運動から大衆運動への社会主義運動の転換、なかんずく方法論上の転換をはかった点に最大の意義を認めているわけです。」(同上)しかし「構革論というのはすでにのべたように、すぐれて運動方法論上の問題提起であったにもかかわらず、それをそのものとして十分貫徹できなかった点にあると思う。つまり、運動の方法論、したがってまた政党の機能論としての構革論は、従来の思想運動型の社会主義運動のなかにあった綱領主義、前衛主義といったもののアンチ・テーゼであったにもかかわらず、われわれの実践上の非力とも相まって、伝統的な『綱領論争』 の泥沼にはまりこみ、『構革は戦略か戦術か』 といった不毛な論争の中で、その本来の活力を失わされていったのだと思います。」(同上) 具体的には現代国家と現代資本主義を分析する積極的問題提起として現代マルクス主義派の国家独占資本主義論(ツインャンク=今井理論をとりあげたが、「今井理論が『政治的国家』と『経済的国家』という二元論をとるにいたってこの理論についてゆけなくなり、国家論で足を」すくわれた。国家独占資本主義論が経済への国家介入のメカニズムを明らかにしていながら、投資規制の主要性を自分たちは明確に把握せず、六〇年代の高度成長を制御し工業化の是正をチェックする上で(したがって、今日のような公害問題の爆発を抑える点で)かけるところがあった、と。 社会党内構革派は、中央オルグ制のような機構改革をかちとり、「活動家の党へ」という路線をしいたが、党内保守派・教条派によって阻まれてしまった。労働運動の革新では、三池闘争の直後、要求の実現可能性というものが部分的であれ、なければ、大衆運動の発展はむつかしいことを肝に銘じ、従来の抵抗闘争から、たとえば石炭の政策転換闘争へ転換した。そしてエネルギー革命に伴う産業構造の転換という背景のなかで、従来の抵抗闘争では解決しえなかったような諸条件、つまり政府による就職あっせん、前職賃金と住宅の保証、離職者に対する職業訓練などを勝ちとった。さらに「同一労働同一賃金の実現、つまり賃金の企業間較差を除くことが労働運動の出発点だという観点。さらに経営の意思決定への労働者の介入、生産管理における労働者の自己決定をめぎすという点があったが、これも重要な問題提起だった。また労働運動を革新する場合、どこが重点かというと政党と労働組合の関係を変えるという問題があった。……また、直接民主主義、労働者管理といった問題をわれわれがもっと進めていれば、その後学生や反戦派の提起した『戦後民主主義』批判とか直接民主主義の志向といったものを、むしろ構革派がもっと具体的に先取りをして、こういうエネルギ1も十分吸収しえたのではないかという反省をもっている。」(同上、傍点勝部) 平和運動では、共産党の敵に対する認識の一致(平和の敵はだれか)を条件とする運動方法に対して、平和への要求の一致による運動論の転換に成功し、「とくに原水禁運動についてはわれわれは大きな貢献をしてきたと考えます。その意味で、平和運動のなかでの構革派のイニシアチブは、理論的にも実践的にもかなり大きかったといってよいと思う。」(同上) また六〇年代の自治体改革運動の発展、定着ということも社会党・構改派のイニシアティブとメリットであった、という。 しかし構改論の個々の命題がなしくずし的に社会党に受容された(自治的構革論はその典型)としても、構改派は「党内の派閥間争の次元でつねに大きく敗れ」、「構革=右派」というイメージをつくり出し、「構革という言葉さえ党内で消えてしまった」。「今日の構革論が一〇年前のような思想的吸引力、先駆性、運動への衝撃力を失ってしまった」理由は、「われわれの問題意識がそれ程発展してこなかったためではないか」という。それならばどのようにして森永氏は構革派と社会党の再生をはかるのか。労農派理論と構革派理論をぶっつけ合うという従来のやり方でなく、「われわれは、今後は基本的に大衆運動の場で勝負するという観点を確立していきたいと思う。これなしに真の主体形成もおぼつかない。一見まわり道のようだが、結局これしかないのではないですか。」(同上)に、みられるように、ここには思想連動型社会主義と大衆連動型社会主義という図式から始まって、革命と改良との関係との現代的位置づけが必ずしもマルクス主義的に正しく位置づけられていないし、マルクス主義における理論と実践、戦略と戦術、とくに社会主義革命論としての構造改良論がよくわかっていない。けだし「イタリア構造改良にたいする独占の偏った解釈と適用として」、「日本型構革論」として社会党に注入され、「先どりされた」(中村氏前掲『新世界』六六年一月号)という中村氏の断定を確認しているようである。 すなわち、「それ自体がいちじるしい思想的政治的組織的偏向である『日本型構革論』 の社会党にたいする関係は、この党にたいする組織的浸透と外的な政策提供であって、この党を真に内的に強化するものではなかった。従って、個々人としての入党と、それぞれの持場での党の革新と強化の努力ではなくて、特定派閥または個人との結合がもっぱら重視され追求される。それは、社会党の主観主義と派閥的官僚主義的傾向の克服に寄与しなかったばかりか、この党の既存の思想的政治的組織的偏向をもちこむことによって混乱を拡大した。」(『新世界』「『構造改革論』の構造改革」中村丈夫、藻谷小一郎、六〇−六一ページ) だから、これによると再生の方向もまた@七〇年代資本主義の挑戦、先進国現代革命の基本的諸条件の成熟に如何にこたえるか、A社会主義の新たなヴィジョンを如何に構築するか、という正しい指摘とともに、直接民主主義の闘争(原点は地域の自治体と生産の場)--市民運動と労働者管理のための闘いが大きい比重をもってとりあげられている。(社運研「新しい社会主義戦略の構築をめぎして」(3))すなわち森永氏はいう。「この分野でとくにわれわれが力を入れたいと思うのは、青年労働者、先端部門の労働者の間に強まっている直接民主主義的な欲求とエネルギーをいかに運動化していくか、という問題です。そういうところへ積極的に党員として介入していき、そこに労働者の自主管理、生産者としての労働者の自立と自治の体制を確立していかねばならない。とりあえず、いまもっている活動家を重点的に配置していきたい。活動家の計画的配置という点では、協会派の諸君の方が進んでいます。」(『現代社会主義』「日本社会党と構造改革論」一九七〇年十月号十七ページ、傍点勝部) (3)社会主義運動研究会は、一九七〇年八月下旬、三年ぶりに全国討論集会を開き、「社会党再生へのわれわれの提言」として、「新しい社会主義戦略の構築をめざして」を発表した(『現代社会主義』一九七〇年十月号)。 なおこの社運研の機関誌として出発し、のちに独立した構改的理論誌『現代社会主義』は残念にも七一年六月号をもって廃刊となってレまった。 またこの社運研と別に社会党内協会派(太田派)の理論家、島崎譲氏を中心に研究センター「現代の革新」グループが七〇年初頭につくられて、旧構革派経済学者や政治学者を広く結集しようとしているようである。設立趣意書の補足説明資料「一九七〇年代の革新の思想運動」によると、(一)六九年末の社会党の議席の激減の原因の究明--「現代帝国主義」と現代革命の形態と内容の追求、(二)「革新」の意味の追求。これは革命と改良、方針と政策との理解の問題がかかわる。(三)社会主義政党のヘゲモニーとその組織化の理解に焦点をすえ、「革新の課題をうけいれる党のトップ・リーダーの形成と地方活動家の結集をどう組織化するか」について、その媒介的役割を果たすことを任務としている。そして課題(二)とかんれんしていう。「一九六〇年代におけるいわゆる『構革論争』を反省するとき、論争が『改良主義か革命的見地か』 の二者択一的発想での対応でしかなく、結局はマルクス主義からの逸脱か、それとも擁護かの次元の論争に止まったように思われます。『構造改革論』者たちは、現代資本主義のメカニズムと革新運動の主体的条件の分析なしに思想次元の問題提起にとどまったし、『反構革論』者も、改良主義への傾斜を警告するのに急な余り、『原理』次元での反論の域を脱しなかった。ともに現代資本主義、とくに日本の高度成長の現実とその可能性を分析しうる視角をもたなかったことに欠陥があった。しかも『構革』か『反構革』かの論争が社会党の『右派か左派』の代名詞として使われた。そのため、この論争は派閥次元の対応に終らざるをえなかったのです。日本社会党の議員政党的体質とその派閥化の現実は、たとえ構造改革論にとりうべき積極的な理論や政策があっても、また社会主義革命をめざす党の思想性の確立をいかに強調しても、それらが党内派閥を介してあらわれるかぎり、党革新の思想的意味をもたないということに注目する必要があります。かつての党内論争に際し、この社会党の体質をこそ同時に問題にすべきであったのに、それにふれないままそれぞれの路線が党の戦略か戦術かというように『綱領的規準』にあわせて結論を出すというしめくくり方になったところに論争の不毛性があったと思います。」 労働者管理や直接民主主義にわたくしは、必ずしも反対ではないが、それが現状において安易に「錦のミハタ」としてとりあげられ、ふりまわされるなら、再び不幸な結果へ導かれざるをえないことは火をみるより明らかであろう。それかあらぬか「社会党なだれこみ」論者や社会党への外からの政策提起者たちはこの方向への理論的新展開を行ないつつある。それは直接民主主義、すなわち「評議会」−下からの自己権力(自主管理--二重権力--生産点での社会主義の先どり)というニュー・ルックである。まず安東仁兵衛氏の「構造改革論と六〇年代革新運動」(『現代社会主義』七〇年十月号)をみよう。 安東氏は、構革グループとしてマスコミ政治地図上、共労党、社学同、統一共産同盟、統社同という構革四派があげられるが、共労党は必ずしも「積極的に構革路線を推進する立場」でなかった、「だから離党派構革グループがなぜ崩れたのかを可能なかぎり追求すべき対象としての政治部隊としては、やはり統社同とその周辺ということになる」として、統社同を中心に問題を検討する。 構革派十年の総括として、それは「今日の時点でみると、政治運動としては明らかに失敗した」。その原因の追求は「まだとつおいつの段階」で「すっきりした結論の出せない段階」だとことわった上で、この政治的崩壊の直接的契機たる六〇年代後半の学生運動と「新左翼」に敗北した理由として「あせり」と「ムード」負けを言う。「僕らは六〇年安保の時、前衛不在を痛感して統社同を形成したのですが、それからあと統社同の場合は、自分たちを絶対化しないことを政治的信条にしていたくらいですから、あせるまいとは自戒していたものの、やはり七〇年が近づいてくるにつれて、どうしてもあせりが出たと思う。来るべき七〇年闘争の前衛の一角を占めたいというあせりですね。そのあせりが全国的に燃え上る学生運動の中で、いまこの運動にのらなければ七〇年代を担いきれない、ということになった。つまり、想像もしていなかったスチューデント・パワーの噴出が、六八、九年に出てきたわけです。これはどの党派も予想できなかった。この運動を同化しなければ、という要素が非常に強かったと僕は思います。ところが、その同化は、全共闘運動への追随でしかなくなってしまったのが残念です。」 「たとえば、統社同の内部の過程をふり返ってみると、学生フロントの場合には、一昨年の秋から冬にかけて急速に変質した。しかもその過程は理論的・思想的に区切りをつけながら変ったというのではなくて、全共闘や街頭諸派の左へ左へ≠ニいう競合状態の中に、ズルズルと捲きこまれていった。自分の理論の組織討論を経て棒を持ち、投石をし、内ゲバをやり、火焔ビンを投げた、というものではなく、いってみれば全共闘や街頭諸派へのムード負け≠ニいうのが正味のところでした。これは学生にかぎらず、盛んに評論活動をやっているおとなにしても同じでしたね。理屈は後からのものです。もっとも、その諸君にいわせれば、革命的実践が理論に先行した、ということなのでしようが。」(前掲) もっとも聡明さを誇り、知的道徳的ヘゲモニーをうたったエリート理論家集団としては、あまりにも情ない結末だが、これが事実だからいたしかたあるまい。いやむしろ将来の実践を展望し理論的に指導しえないような体質を始めからもっていたのではなかったのか。小ブル学生大衆が内在的にもっているアナルコ・サンジカリズムや一揆主義(日共の短い歴史の上でしばしばあらわれるあの急進主義の左翼小児病)をくいとめ、大衆のエネルギーの噴出を正しく指導しうるようなカードルの陶冶に始めから日本型構革主義は失敗していたのではなかろうか。 安東氏らと学生グループとの論争点が、一、今は革命期であり、したがってこの時に改良を提起することはこの昂揚を阻止するものである、という判断、二、権力=暴力という問題であり、この二つの点で安東氏ら「おとな」は、「学生・子ども」の「戦争ごっこ」を説得し、阻止することに失敗した、というわけである。 つまりこの二つの問題で左翼的であり、「陣地戦」「ヘゲモニー」を馬鹿の一つ覚えのようにくりかえしていた、という「学生・子ども」の批判が生まれた。さらにもう一つ「チェコ侵入」問題で暴露されたもので、構革派は、もちろんソ連派≠ナはなかった。しかしそのソ連批判は非スターリン化≠ノとどまっていてスターリニズムをラディカルに否定するという理論的射程をもっていなかった。さらにいう。「一〇・二一、東大闘争、チェコ侵入、それにからんだ形での文化大革命の評価、それから逆にさかのぼってベトナム戦争に対する構革派の態度への批判等々が生まれて来たと推定されます。構革論は第三世界を包摂しきっていなかった、それどころか一種の先進国革命主義であって、ベトナムの革命闘争が発揮するであろう世界革命への貢献、ないしはその指導的な役割に対して過小評価したという、彼らなりの構革路線に対するあきたりなさが出てきたのではないでしょうか。そこから社会主義を根底から変革し、第三世界を突破口とする世界革命へという考え方、そして先進国革命のパターンとしては、フランスの五月闘争からラディカル≠ノ学んだと称し て、暴力としての権力、権力としての暴力、というエキセントリズムが出てきたのではないだろうか。それらをずっとつなげると、もはや構革論ではだめだという判断になってきたのではないかと思われます。」(前掲) 討論者自身、批判者自身が、この学生たちのラジカリズムを理論的に論破できる背骨にかけていたことは事実である。たとえば少し長いが安東氏のことばを引用すれば、 「端的に例示すれば中国の文革ですね。構革派の中にはこれをスターリニズムの再現であると切って捨てる傾向が強かったことは争えない。しかし、毛沢東へのカリスマ的な崇拝、中華ナショナリズム等々の批判に止まらず、文革に示された新たな問題ということを、いまいったわれわれとの問題との関連で学び取ろうとする姿勢が欠けている。文革の現実はソ連型管理社会にたいするアンチテーゼに止まっているとはいえ、たとえば彼らのいう革命委員会方式のなかには、先進国革命と社会主義に通じる労働者委員会、人間的・社会的諸関係の平等化、肥大化し、固定した分業の桂根の打破、等々の問題意識が含まれているはずです。 あるいは、彼らがいう『コミューン』『ソビエト』『評議会』問題を考えてみましょう。構革論が提出した介入ということの考え方の中に私はほんらいこのあたらしい権力概念が予示されていたと思うのですが、しかしそれはいっこうに明らかにされず、もっぱら『新しい多数派』『民主的多数派』という量的概念が主張されていた。構造的諸改良を支える主体、改良を改良主義に堕させないための主体的条件の掘り下げが足りなかった。 だからわれわれのなかでも六〇年代半ばから直接民主主義という表現におきかえて、初心を適切に表現したいという努力が行なわれましたが、やはりフランス五月の教訓、学生運動の衝撃といったものがでてきたときに、いわばあらゆる革命にとって普遍の命題である広い意味での二重権力---新しい、下からの自己権力---の問題について、われわれは十分にほり下げていなかったといえるのではないか。問題の発生と同時にその本質と発展方向を的確に洞察して指導性をもって事態に対応するという点でよわかったのではないかと思います。」(前掲三七-三八ページ) そして「グラムシの工場評議会運動についてそれほど深く学んでいなかった」となる。こうなってくるとおとな≠ニ子ども≠フ間の論点の明確な断絶と対決が、わたくしはさっばりわからなくなる。「文革」といい「ソビエト」「評議会」といい、このような「ものわかりのいいおとな」に教えられ、「甘やかされ」、子どもたちは単純明快に、「紅衛兵」的全否定、と「武闘」「決戦」にすすむプロセスがよくわかる。「文革」についても「評議会」についてもわたくしは、たくさんの疑問をもち、いつもながらのことだが安東氏のように「すっきり」と割りきることはできない。 さらに、資本主義の新しい状況、社会構造の変化の中で資本主義の新しい矛盾もそれに応じて急速に展開してきた。日本も中進国から先進国に変化した。それにたいして中進国型の社会であるイタリアの「たとえばトリアッティの構革路線自体が三〇年代の人民戦線戦術から発展させられたものであり、三〇年代的、人民戦線的発想から抜け出られなかったような限界があったと思われます」(前掲三九ページ)という編集部の問にたいして、安東氏は平和運動をとりあげ、肯定的に例証する。五〇年代より六〇年代初頭にかけて構革派の運動理論がもっともメリットがあったことは明らかである。「ところが、戦争と平和の構造が六〇年代後半から変貌したわけです。とくに部分核停条約(六四年)以来アメリカの対応が柔軟多角反応戦略という形に変ってきた。いわば部分核禁で熱核兵器をカツコにいれたうえで、現代世界とりわけ第三世界における反革命輸出を追及するという戦略です。いわば帝国主義の側が新しい戦術を練ったと思うのです。その突破口がベトナムに見られるわけです。ところが、構革派の平和運動は二重の意味でベトナムへの対応が立ち遅れた。一つは平和運動プロパーの次元でみて、熱核戦争をカツコに入れた後の戦争と平和の構造の問題についてダイナミズムを欠いた。五〇年後半から六〇年代初めのパターンで新しい事態に対処しょうとしたといえるでしょう。実践的には、部核の後は軍縮だという想定をしていたが、実際は軍縮どころかベトナム戦争ということでふっとばされている。」(前掲三九−四〇ページ) それならば部分核停についての評価は誤っていたのか。米・ソ結託(「平和共存」)がアメリカのベトナム侵略を可能にしたのか。「ベトナムの対応が立ちおくれた」とは何をいうのだろうか。CND・一〇〇人委、「ラッセルの論理」から「ニュー・ニュー・レフト」(吉川勇一)べ平連とつながる論理は、わたくしなども追求し、六五年ヘルシンキ世界平和大会でも表明してきた論理である。それとも「ベトナムに平和を」というスローガンが誤りであったのであろうか。ものはすべて両面の真理をもち、冷戦時代のカツコつきでない平和共存のための闘争−帝国主義国の政策転換のための闘争はやはり正しかった、とわたくしは考えている。ここではくわしくはのべないが(講座『マルクス主義』第九巻二一五ページ参照)熱核兵器の異常な発達と平和擁護という圧力により人類共滅戦を防止しえたし、その結果、六二年のキューバ危機以降、アメリカがケネディの下で局地戦による植民地解放運動の鎮圧にのり出してきたわけだ。「ベトナム」が、世界人民の問題点となり、「ベトナムに平和を」は、アメリカの侵略反対と結びつき、民族解放闘争との連帯支援と決して矛盾するものではなかった筈である。なべて国内政治でも国際政治でも、決して一直線なものや、「すっきりした」区切りのあるものでもなく、動と反動、進歩の側の一歩前進が、反動の側によってつつみこまれ、新たな矛盾に転化するという形でジグザグに進むことを弁証法が教えている。 さて安東氏のいう、「現代世界革命路線としての構革路線に、第三世界に対する過小評価というものがなかったかどうか。この点について六〇年代当時の構革派の問題設定は、南北問題というアングルからのものであり、その中で非同盟中立諸国がなしくずしに非資本主義的発展のコースをとって、しだいに社会主義圏に接近するだろうという想定が、一時僕などにはありました。したがって、ベトナム戦争の発生、キューバ革命のような武装革命などについて的確な評価が立ち遅れた。」(前掲四〇ページ) この「第三世界」という用語がわたくしにはよくわからない。資本主義世界、社会主義世界に対応する特殊な第三世界というものがあるのか。民族独立をかちとって「発展途上の国」、AA、LAといわれるものをさすらしいが。キューバやベトナム民主共和国のような社会主義国をこれに入れる場合もあれば、韓国、南ベトナムのような反動的政治体制をもった国をも包括することも理論上可能だ。「非資本主義的発展コース」にたいするオプティミズム(ルビンシュタイン)についてならインドについてはすでに五〇年代にゴーシェによって否定され、アルジェリア、ガーナ、インドネシアの事実の発展によって否定されている。しかしそうだからといって武装革命を絶対的パターンとするのも間違いだろう。キューバやベトナム型武装革命の場合もあれば、チリ、セイロンのような型も可能だろう。いづれにせよ、これらのAA、LAの国々に一般的絶対的型を想定することは誤りである。そのいみでレジス・ドプレ「革命の中の革命 にはキューバ革命の事実にすら反した誤った図式化がある。(山崎カオル「キューバ革命の伝説」『思想の科学』七一年十月号およびドプレ自身 の自己批判「自己批判は勝利への道」『情況』七一年十一月号参照) 現代の搾取としての疎外あるいは全体の労働者像をどうとらえるかについても立ち遅れがあった、として安東氏はいう。「しかし、構革派が主として運動論として展開したのは政策転換闘争であり、横断賃率であり、労働組合の組織のより合理的な産別化をめぎす、という組織論だったのではないか。生産原点での労働者の自己統治、権力、管理、などの問題に対して、構革派はどちらかといえば三池闘争にみられるような旧型の職場闘争主義の不毛性を批判するということで、かんじんの赤子を流してしまっていた、ということがあったのではないか。」(前掲四〇ページ、 傍点勝部) 構革派の国・独・資論について安東氏はいう。「全体としてわれわれが理論家から受けた視点は、生産力の発展が社会化を不可避とし、その社会化は社会主義への接近の客観的な橋頭壁になるということ、資本主義体制の下での国有化が潜在的社会主義であるかのような印象を与えるような理論さえ含まれていた。全体として、民主主義と生産力の自動的発展、その延長線上に社会主義を有利にたぐりよせるごとができるといった理解があったのではないか。たとえば、クリービング・ソシアリズム---しのびよる社会主義---といった考え方などに断固として異議申し立てをしなかったという体質があるのではないか。」(前掲四〇−四一ページ) さらに日共のさいきんの自主独立路線への転換について安東氏は「日共の新路線は、あくまでも議会主義につぎ木された『構革的なるもの』に過ぎない程度」といいながらも、「先進国革命の路線としての構革路線の方向の許容、指向に向わざるをえないと思います。」(前掲)と肯定的であり、日共的体質が形の上での構革路線をとる場合社会党の場合よりもさらにひどい右翼的歪曲−「大衆をひき上げる」のではなく、「大衆へ埋没」し「革命」放棄にいたる点の指摘はない。かれは「おのがじし唯一絶対の前衛」であるというセクト主義をはいし、「日共の即自的な反対者であるのはやめたい」といい一貫した統社同の理念をのべる。その言やよし。しかし実際は如何であったであろうか。はたして「正統意識」と「スターリン主義」は統社同に無縁であったといえるであろうか。むしろこの点にわたくしは一番大きな問題をみる。また「日共なぞ相手にするのも下らぬ」という思い上りが、論争は相手にたいしてよりも大衆にたいし、啓蒙と説得のためになすべきであるという革命家の基本的姿勢をぼやかしてしまい、必要な理論闘争ぬきにして、結局は一にぎりの「近親的理論家グループ」に、しかもきわめて非スターリン主義を標揺するスターリン主義的集団に化せしめたのではなかろうか。 全体の総括として安東氏はいう。「日暮れて道遠し″という感じがしています。さきほど既存の社会主義体制の革新について甘さがあった、ということを反省点として挙げたのですが、日本のマルクス主義的政治運動の体質の革新を志したわれわれには、その困難性について、これほどに根深く、頑固なものであるという覚悟はやはりなかったといわねばなりません。……だから僕ら自身のことをいえば、社会党の評価、江田構革運動の評価に対して何回も過大評価をいましめ合いながら、にもかかわらず期待するということで、くり返しがありました。日本共産党の革新ということについては絶望的に近い程ペシミスティックでありながら、逆に、日本社会党の革新については非常にオプティミスティックであった。 また理論家のなかには---例外的な存在であるとはいえ---主体の問題を問わずに、もっぱら政策の実施のみに社会進歩を見るといった姿勢さえあった。社会党であれ、何であれ、どこにでも政策の諮問に応えるという---われわれはこれを政策提起主義と呼びました---傾向なんか、必要以上に構造改革論のイメージ・ダウンに役立った。」(前掲四三ページ) 親しい友人の安東氏に対し、わたくしはいささかきびしかったかも知れないし、傍観者的のそしりをまぬかれぬかもしれない。しかし政治指導者としての安東氏はこれまできびしい批判にさらされることなく「ツー・カー」グループの小サークルにあまりにもどっぶりひたりすぎたのではないか。すべからく政治的理論的突撃隊長としてではなく、政治グループの総帥としての道を歩んでほしい。いろいろと珍奇な曲や歌が出ては消え、出ては消えるだろうか、それにいちいち気をとられることなく、「一本ドッコ」にまっしぐらに進んでほしい。そのいみで「息を長く、腰をすえ直して構革路線のあたらしい構築と推進に努め合おうではありませんか」という結論にわたくしも大賛成である。 学生新左翼と真正面からぶつかった安東氏の場合はさておき、これが中間派グループ---大森、小寺山、松葉氏ら---になるともっと眼をおおいたくなるような「総括」となってあらわれる。統一労働者同盟(準)の政治文書「構革論総括と戦闘的再生への基本的方向」をとりあげねばならぬ。 この文書にはいままで部分的にはしばしばふれてきたが、これがもっともまとまった文書であり、また「日本型構革論」 の特徴をもっとも誇張した形で示しているという点で問題にしてきたのである。 第一次革案と名づけるこの文書(二次以降が出たのかもしれないがわたくしは今までのところ入手していない)、「われわれ」とか「統社同何々派」という代わりに、自らを「日本構革派」として語っている。だれが一体かれらに「日本構革派」全体を代表する権利を与えたのであろうか。わたくしは疑う。すでにここに「おのがじし唯一絶対の前衛」という発想と手をきった立てまえの統社同系一グループに、自らを正統派と名のらせる本音があったのであろうか。とまれ、自らのみを「日本構革派」とよんではばからぬこの中間派グループの姿勢にすでに鼻もちならぬごうまんさと小スターリンの姿をみるのはわたくしのひが眼だろうか。しかしこのしょっぱなの「日本構革派」にひっかかっていてはきりがない。かれらがどういう「総括」を行ない、「戦闘的再生の基本的方向」をどのように模索しているのか、一応読みとおしてみよう。 まずはじめに、「五〇年代階級闘争の、政治的、理論的、思想的総括の帰結として登場した日本構革派は、六〇年代階級闘争の巨大な自然発生的高揚の中で、自らの歴史的限界を対象化し、自然発生性を止揚し統一する論理を見い出しえないまま、大衆の自然発生性の巨海に埋没し分解していった。」 つまりかれらが党派再成の方法論において自然発生性→その機会的外在的存在としての「意識性の純化」というとらえ方をしなかった。そこで「自然発生性の高揚の内部から意識性の要素を抽出する論理と方法における挫折が、自らの党派の解体にまでゆきつかぎるをえなかったのはけだし必然的であった。」そこで初期構革派への単純復帰や、既存の検証ずみの路線はありえない。方向は「この数年間の階級闘争の展開とともに存在し、その解体の過程にも加担してきた、われわれの実践的営為の総体の対象化を通じて、構革派の戦闘的再生を追求しなければならないと考えている。……この数年間の階級闘争の自然発生性の内部に萌芽した、意識性の抽出を通じた、構革論の戦闘的再生への道である。」(傍点勝部) こういう総括の基本的視点から、第一にかつてのかれらの仲間で「構革論」をいともかんたんに「止揚」してこの中間派をもたたき出してしまった「先駆」派の「レーニン主義」への先祖帰りを批判する。「政府中枢制圧」、「計画としての戦術」「権力奪取の第一義性」の確認が「レーニン主義」の復活などでなく、「じつはスターリニズムの純化」に外ならない、と断定し、これに対比して「構革論の本来的に有してきたシューマ-党(目的意識性)、と階級(意識性の萌芽)の有機的関係、政治革命(権力奪取と国家の死滅)−社会革命(共同体的所有と社会的分業の止揚)の弁証法、革命の全体性の回復、戦術としての中間的獲得目標をあげる。 そして階級闘争の自然発生的昂揚にたいし、その意識性への昇華に決定的に立ちおくれていた「われわれ」の歴史的限界、それに止まらない理論的・思想的弱点こそ総括し、止揚されねばならなかった。こういう方向になされない総括は構革派運動の批判的総括の回避と構革の外在的清算におちいる外ない、という。 こうして自らが指導し、「加担してきた」「子供たち」の「レーニン主義」の戯画への先祖帰りを批判した上で、かえす刃でわれわれ雑誌『構造改良』派批判にとりかかる。すなわち「階級闘争の自然発生的高揚にたいする即時的反発のレベル」に止っている。「この数年間の階級闘争の総体としての性格をただ観念的な「革命的幻想」としてしか見ぬくことが出来ない限り、「先駆派」と同様自然発生性への外在的批判者たるにすぎない」と。 しかしわかってか、わからずしてかともかくも、われわれが「理論と実践」の境界領域の理論建設の必要、構改理論を革命のための「運動学」として、追求しようとしている点については同感をよそおいながら、実践による検証でなく「トリアッティ---イタリア共産党第八回大会---日本構革派の理論的・思想的連統性への保守的帰依」と断罪している。このようなばかばかしいねじまげと断罪についてはすでに本誌第三号の巻頭言がふれているのでこれ以上、立ち入る必要はない。問題はかれらの総括視点とその内容であろう。 中間派は、日本構革派の生成がイタリア共産党第八回大会の「構造的諸改革の路線」を、単なる「経済構造の改革」(不破哲三)、または「イタリアに特有の路線」として摂取することを拒否し、「同じ先進資本主義国における独創的な革命路線の誕生という条件の中で、どのようにしてそれを日本の条件に適用させるのかの問題意識から出発した」そして直原同人のつぎの規定を承認する。「戦後日本の第一段階が、総体としてブルジョア的安定と本格的な資本主義的活動の開始にむけて成熟していったことの結果として、ひとつの翼として、戦後の大衆運動の敗北過程に対する清算主義的総括としての、反体制運動の可能性への不信にうらづけられた急進主義があらわれ、他の異に資本主義的未来への楽観論としての近代化論への傾斜が生じたのだといえるでしょうか。 そうして、わたしたちは、この両翼に胎まれている先進国革命への絶望に対立し、それを克服するものとして『政治経済構造の反独占民主主義革新と構造改革』の政治路線をみずから定立したのだ」(直原弘道「七〇年代構改派のひとりとして」『現代の理論』一九七〇年十二月号) @日共内反対派A六〇年安保闘争の総括からの出発という二重契機を孕みつつ、かれらはさまざまな反代々木コース---「思想革新グループ」(「現状分析グループ」)、「党建設グループ」(社革グループ)と、そしてもちろん「トロツキスト的急進主義」とも異なる道、を歩みはじめた、という。だがこの「異なる道」が何であったかについては、批判的総括はされていない。炭労、中小企業、公労協その他の反独占構革闘争の意義と必要性がでてくるが、その運動基盤、その総司令部、前衛党形成問題については、「構革派としての我々の主体形成は、なんらかのできあいの教条、外的な権威を一切拒否することからの出発であるかぎり、われわれはすでに出発にあたって一切のドグマと権威への退路を断った¢カ在であった。また同時に、現実からの出発に第一義性をおくとともに、現実への絶えざる緊張を持続しうる資質の獲得をめぎしたものであるかぎり、われわれは常に現実への埋没の危機性と現実からの逃避の誘惑との間で耐えぬく思想的・政治的路線の不断の検証を欠落させることが、そのまま自らの政治的・思想的風化に直結する存在としてあったのである。」(同上一四ページ) このような立場が「複数前衛」「機能前衛」論にみちびかれ、現実にはまったくスターリン主義的組織構成をもった「理論の切りうり屋」グループに堕してしまったことの自己批判は一カケラもない。だから「こうした日本構革派の出発にあたって確認しうる政治的・思想的立場は、いまもなお有効なものとして確認しうるばかりではなく、今日、構革派の解体の中からその戦闘的再生を追求しようとするわれわれの共通した立場性である。」 あれほど「前衛党」建設グループ(社革)をあざ笑い、スマートな「理論政策コンサルタント」として社会党と野合しながら、自らの小グループ(たかだか七〜八〇〇人)の統社同内部でしかもわずか十数名の全国委員会内部でどのようなスターリン主義的派閥形成、権力グループ内の非民主主義的な「根まわし」が行なわれていたかにまったく眼をつぶっている。こういう自己批判とは一体何であろうか。 「今から思うと代々木の中央委員会の方がまだ民主的であった」と労働運動家H氏をしていわしめた統社同全国委員会のエセ民主主義を何故ここで明らかにしようとしないのか。 この点にメスを入れず「今なお有効なものとして確認する」政治的思想的「タテマエ」をわたくしは信用しない。メスはもっと深部の「ホンネ」の中に入れらるべきである。共犯者たちは、そこでどのようなスターリン主義的「小政治」、マキアベリズムが行なわれたかを明らかにすべきである。スターリン主義がここまでわれわれをむしばんでいたかをえぐり出すことによってはじめて、「再生」は可能である。これなしにはどんなに粉飾を新たにし、新ファッションをもって登場しても再びスターリン主義的「エリート集団」の「戦闘的」再生となるほかはあるまい。わたくしは「政治とは本来そういうデモニッシュなものだ」という丸山真男的論理を拒否するところに立っているのだから、お人好しといわれようと何といわれてもこの点では引きさがることはできない。 では何故に日本構革派の敗北、解体が叫ばれねばならないのか。再びかれらは直原同人を引用する。「わたしたちが有効な政治努力としてみずからを組織しえなかったことと見あって、わたしたちの知的先進性(相対的な)の低落と停滞が避けがたく生じました。もっとも尖鋭な現実関心によって出発したにもかかわらず、国家論から戦術論、運動方法論にいたる諸問題を、ひとつの政治意志にもとずく実践と総括の発展的契機として追求してゆく上で、わたしたちには欠けるものがありました。そこから第一に理論的関心は理論的関心として完結してしまい、その党派的表現としての運動とは切断されてしまう傾向、第二に党派の実践的主張となりえない政策、それによって党派の主体的性格を形成することを予定しない政論、第三に必然的に運動に政治的表現をあたえるのでなく、図式に運動を適合させようとする発想、第四にしたがって実際の運動のなかに萌芽しているものへの関心と総括の欠落などが生じました。」(前掲論文)そして大学闘争と六九年秋期安保闘争に負けた原因をつぎのようにいう。大学間争では「むしろわれわれは自らの運動論に見合う闘争の質・獲得目標を十分に提起しえなかったことにおいてその限界性があったのである。そして、そのことへの限界と失敗が大学闘争をバネとする構革論の活性化と再構築のための一つのしかし重大な契機を見失うことにつながったといえる。」「大学闘争における構革派のつまづきは、実はその非構革的運動に対する対立物として存在しえなかったところにあるのではなく、本質的に最も構革的運動であった闘争に対して、自らの限界性を止揚し、その過程で運動への意識的主導的役割を果しえなかったところにこそあったのである」しかし事実は、反マルクス主義的急進主義に対抗しうるに十分な理論的ヘゲモニーが確立されていなかったため「ずるずると情勢に押し流された」 のではなかったか。 だからかれらの構革論総括の方法は、@構革論の初発の問題意識の内在的解明、Aベトナム、フランス五月、チェコの闘い、全国の大学闘争の自然発生的に提起した意識性の萌芽の共通性の確認とその理論化、抽象化を通じて構革論の体系の戦関的再生を追求することである。B以上の総括視点を通じて抽出されてくる命題は、『評議会』のテーマであり、現代革命路線におけるその位置づけの作業である、と。 ついに出てきた「評議会」--「理論切りうり集団」にかけていたのはこのグラムシの「評議会」テーゼだった。「機動戦−陣地戦」、「介入政策」、「知的道徳的ヘゲモニー」の代わりに、「評議会」が今後の「目玉商品」とならざるをえない。 この政治文書の第二章「構革論の内在的批判とその総括」は「理論切り売り」集団らしく、その商品内容--井汲卓一氏から、柳田侃氏にいたる、個々の理論家の理論内容の再検討にあてられている。学会討論レジュメ的なこの章についての紹介もわたくしのそれにたいする批判的意見もかんたんに行なうことは到底不可能である。学者のそれぞれの学説にたいしては、学問的次元で対決するにはこのような場所でこのような形で不十分に展開するのは当をえていないし、礼を失する。だからここではごくかんたんに問題点をふれるに止めざるを得ない。何度も繰り返すようだが理論と実践の再検討が(たてまえとはことなり、じつさい上は)その媒介項である日本の「主体と運動学」の観点ぬきで、抽象的観念的に、しかも個々の理論家の業績のイージーな紹介、摂取となっている点が、この政治グループの「総括」 の内容をなしている点がまったく特徴的である。 まず第一に構革派世界認識の総括。構革派はレーニンの「帝国主義論」の歴史的限界とともに、スターリンの全般的危機論にたいする批判的総括をその射程に入れていた、としてスターリンの 「一国社会主義論」と「全般的危機論」を批判する。そして「平和共存」のための闘争の歴史的意識をまったく捨象して、ここではトロツキストとともに、スターリンの一国社会主義論に根拠をもつ「生産力発展と技術進歩という両体制に共通する没価値的競争の、観念(自己充足的完結の観念)が、資本主義の『停滞の必然性』の観念にうらづけられて『社会主義世界体制のますますの優位性』として語られてくる。そのためにこそ、その観念を現実化させるためにこそ『両体制間の共存』=米ソ共存体制の必要性とそれへの世界階級闘争の収赦が第一義的に要請されてくるのである、」という。さらに「革命の各国における多様性の観念」も既存の「社会主義世界体制への量的拡大と両体制間の競争の観念への参加としてのみ許されるから「チェコの新しい道」はそこからの離脱、植民地民族の解放闘争の「非資本主義的発展の道」は、ソ連型社会主義モデルへの接近のもっとも確かな方法としての意識をこえることがない、と断定する。後者にたいしてソ連型社会主義と西欧近代への無限の接近を「止揚」しょうとするOLASの連帯−ゲバラとキューバ革命を、賛美していう「中南米における民族解放闘争との同質性・同時性の獲得によってこそ、キューバ革命と中南米革命の社会主義的前進を可能にするという、インターナショナリズムの復権でこそあったのである。」と。 借問する。チリーの新しい事態はどうなるのだろう。さきにいわれたように無知のままにキューバ革命の手ばなしの一般化、絶対化やゲバラ讃歌をわれわれは警戒すべき時点にきているのではないか。それとも、また情勢の変化に応じてこの点では新しい「理論」商品を仕入れるのだろうか。 この文書はついで井汲卓一氏の「冷戦構造論」のメリットを掲げたのち、両体制それぞれの例の「多様化」「分極化」現象の発生により、新たな困難---平和共存の新たな危機(仏・中核開発)を生み出すのだが、それは「民族主義の自然発生的爆発となって現象する」という。 この井汲「冷戦構造論」に対応よる、構革派池山重朗「人類平和闘争論」安東仁兵衛「平和共存論」にする「人類概念」「諸国家間の民主的関係」が実践的方針としてより具体化し成果をあげた。しかし新たな「分極化」に相応じ、「冷戟構造論」は古くさくなる。柳田侃氏の理論がここでとり入れられる。この人類≠ヘ北の人類≠ナあり「植民地体制の崩壊と第三世界の形成を十分理論的に包括していなかった」、すなわち、ベトナム戦争にみられるような「後進国民族解放闘争の歴史的意義は、たんなる既存の体制のいづれかへの発展の方向をたどるのではなく、それは、現有社会の異質な要素として世界史の前面に登場しょうとしていることにある。マルクス主義がこの後進国人民の爆発的なナショナリズムを、新しい変革の主体として現代危機の構造の中に位置づける理論的視座をもちえないことに真の問題の核心がある」と。こういう柳田氏の「第三世界論」について、それは一体何かよくわからないし、何故マルクス主義がこの間題の解明に不毛であるといわれるのかわたくしには納得できない。ベトナム解放戟争のもつ世界史的意義を十分にみとめるのだが、それが「ベトナム革命のもつ独自性--西欧型資本主義とソ連型社会主義の両者とは区別される別個の革命の道---とは何であるのか。それはいかなる内容と形態において自己の独自性を主張しようとしているのか。そしていかなる世界革命への展望を内包しているのか。」と問われ、「それは、ベトナム人民の勝利的前進が、従来の後進国解放闘争の目標たる政治的独立→経済的自立のコースをこえて突き進もうとしていることに対する世界のプロレタリアートへの覚醒力を自覚することに他ならない。すなわち、ベトナム革命が中国の文化大革命、ゲバラの「第二第三のベトナムを」の政治的・思想的衝撃と合流し、ある一つの革命的心情を形成していることについて、われわれは無自覚であってはならない。」 (同上四七ページ) 理論がついに心情に転化するとき、ここにいいだもも氏らの新左翼の世界革命論とはどうことなるのか理解に苦しむ。南ベトナム革命が、将来アルジェリア型に止まるか、それともキューバや北ベトナムの道をすすむかを、いまあらかじめ断定するには民族解放戦線の構成と指導にかんするもっとくわしい材料の検討が必要であると思われる。ここで必要なのは科学的分析であって心情的展望ではなかろう。 また「世界革命の過渡的段階におけるプロタリア国際主義の、中間的過渡的スローガンとして、平和共存は中国の国連加盟の実現とともに、インドシナ全域における戦争状態の終結とアメリカ軍の全面撤退の闘いの、具体的にして生きたスローガンとして復活させられねばならないし、重要な課題となるであろう。」というが、中国国連加盟が (新加盟でない−正しくは代表権の回復であってこういう誤った新聞用語を用うることはわれわれの間では許されない犯罪的用語であろう)現実のものとなった現在、中国とともに平和共存=現状維持=内政不干渉の論理で、たとえば「バングラデシュ独立の闘い」についてこれを否定するつもりだろうか。中国とともに「満洲国の再来」とでもいいたいのか。なべて日本の革命家を自認する人々や、左翼的評論家と自称するグループが、「流された血」にたいし、不感症となり、いつも「殺されるものの側」にたっていないことに私は心そこから憤りを覚える。 「世界のどこかでなにか不正が犯されたならばいつでも強く感ずるようにむりなさい」というゲバラの遺言を、わが国のゲバラ讃美者たちは何と思ってきいているか。一〇〇万の虐殺、一〇〇〇万の難民の餓死寸前の状態に眼をつぶり、何一つ行動しない「革命家」「評論家」とは一体何なのか。 このことをぬきにしては、「それは、世界階級闘争の総体としての把握における生産力主義的・客観主義的偏向についてである。」という総体的自己批判がそらぞらしいゲバ学生の甘ったれた心情吐露的なものと同質のものとしかうつらない。 第二部、反独占統一戦線・構造改革路線の総括も同様の調子で展開されている。タネ本はここでもマニフェスト・グループ、とくにルーチョ・マグリである。まず「他方、コミンテルン第七回大会路線の延長上に、今日の統一戦線を追求する思考は、実践的には右翼的日和見主義でしかありえないことも現実の階級闘争が教えるところである。」という断定があり、そしてレーニンの統一戦線論その負の側面のスターリニズムとしての開花、肯定的側面のコミンテルン第七回大会の反ファッショ人民戦線テーゼとしての延長線上に今日の構革派反独占統一戦線論をみ出す。ここでスペイン内戦における「新しい民主主義」、反ファシズム抵抗闘争における権力機関としてのソヴュトでない、人民委員会の存在と人民民主主義革命については奇妙にもまったくふれられていないのはどういうわけか。また「ファシズムは、ディミトロフ報告のように独占資本の最も反動的、排外主義的独裁というブルジョアジーの一般的支配様式ではなく、むしろ、後進資本主義国もしくは敗戦資本主義国の特殊な支配様式であり、また、それは暴力とデマゴギ一による支配のみではなく大ブルジョアジーと特権的中間層の同盟にも依拠しているjという検証ずみの、一知半解の規定には失笑を禁じえない。コミンテルンやディミトロフを絶対視するつもりは毛頭ないのだが、たとえば当時のフランスのような先進資本主義国における強力なファシズム運動の存在とその征覇の危機をどう考えるのだろうか。フランスでファシズムの征覇をくいとめた労働者・知識人の大闘争の意義をどう考えるか、こういう見解をかつてコミンテルン第七回大会は「客観主義的偏向」として闘う立場より否定していることを知らないわけではあるまい。 ところでマグリの結論は「いまや陣地戟の時代は終った」である。だからこのままおしすすめてゆけば、新左翼的武装革命路線に当然ゆきつかざるをえない。 この点で中間派の「大人」たちは、「戦争ごっこ」へのめりこむその「教え子たち」と手を切らねばならぬ(直原氏があれほど鋭くK氏=小寺山氏の政治責任をついたのは、この点ではなかったか、『こむうな通信』一号参照) 大人は子供とちがう。「機動隊」につっこむわけにはゆかない。「すなわち『もはや陣地戦の時代は終った』(マグリ)のではなく新しい条件の下で、新しい形態における陣地戟の戦術があみだされねばならない。そして同時にその新しい陣地戦の戦術=新しい統一戦線は、最後の決戦のための新しい質的飛躍の論理(ロシア革命とは異なる性格)を構築しなければならない。それは「評議会」のテーマであると。」(同上九−二二ページ) 要するに党(大衆的と前衛党)はつくれないし、つくりたくない。全体革命を志向し権力奪取以前において「きたるべき社会の予示を可能なかぎり追求しようとする」新しい党≠ヘ機能前衛≠ニして党−労働組合でなく、党−評議会として再構築される。第一次大戦後の特殊な歴史的事情と各国の特殊性にもとづき、革命情勢期に発生したソヴュト(評議会)や第二次大戦中の反ファシズム民族解放闘争の中から生まれた「人民民主主義」(人民委員会)でなく、平常時における「評議会」 の再生の上に「党」をつくり上げようとする。労働組合にかんしても「われわれは、評議会−労働組合の関係を前者の歴史変革主体としての優位性の確認のうえに、しかし、弁証法的、有機的関係としてとらえるのである。今日の高度資本主義国における革命戟略は、この評議会と労働組合の弁証法的統一を基礎にくみたてられねばいかなるこころみも無力なものと化してしまうであろう。」(同上A−二二) かくて結論にいう。「労働組合は産業別全国ストライキをその主要な武器とするのに対して、工場評議会は拠点大衆ストをその特有の戦術として駆使することによって、混然とした階級の力の行使を表現し、両者は体制の顕覆へとむかう。過渡的・中間的目標=構造改革のプログラムによって領導され、革命過程の意識的主体へと自身を高めてゆくことができる。 構造改革の路線の再生−その戦闘的再生はかくして当初に結論づけた「労働者権力」のうえに開花し、いまひとたび日本の階級闘争の最もすぐれた党派的立脚点へと自己を昇華させることができるであろう。」 これが一年を費した「研究成果」である。そして実さいの運動への具体的「評議会」の適用とは、労働組合の左翼分子の結集(これだけなら新左翼的赤色労組主義になる)と外部の「理論注入商会」との結合となる。その成果については、松葉武雄「新しい型の労働組合運動と教育労働運動」(『現代社会主義』七一年五月号)をみるとよい。労働組合が、「労働力商品の販売条件」の改善にのみたずさわるのでなく、商品の内容に、生産者的要求の大衆化にとりくむことによってのみ可能だ。「教育内容を問うことを軸」とする運動に、革新的工場委員会を軸にして、組合運動をすすめ、「自己管理」、「社会主義の先どり」を行なうというのだ。教育労働と.いう特殊な労働の場合はもともと、そういう教育労働の内容と切りはなされぬ性格をもつものであるが、またこの点に教育労働者の特殊性があると思われるのだが、この考え方が、他の製造工業や生産労働にひきうつされるとどうなるか、労働者を生産内容の管理者にしたて、創意を発揮させること、---現代先進国の独占ブルジョアジーがもっとも努力しているのがこのような労働者の積極性と創意をひき出すことではないか。もちろん国家権力と工場管理の中核部分を自ら手ばなさないという条件のもとで。こうしてできる限り労働者の自主性(自主管理)をひき出すことこそかれらのもっとも歓迎することであり、これがほんとうの「マル生」ではないか。 権力の中枢、生産の中枢を独占ブルジョアジーが握っている場合の「二重権力」とは一体何であろう。それは 「欺瞞」以外の何ものでもなかろう。これまで高い理論的水準に立ち、すぐれたイニシアティブを発揮していたと思われる労働運動家松葉氏がこのような理論的泥沼におちいりかつそれに気づいていないのをみるのは、かつての友人として痛ましい限りである。「社会主義を問い直す」「反体制労働運動とは何か」(三一書房)という小冊子でも同様の見解が展開されているが、たとえばつぎの文章は一体何をいみするのだろう。「ところで、資本主義の経済力が現在のように強大となってくると、労働者の改良要求をあるていど許容する余力ができる。他方では経済の主導者である技術集約産業では、搾取と抑圧という前近代的な方法で労働力を管理することが不可能となってくる。」(「新しい型の労働組合と教育労働運動」『現代社会主義』一九七一年五月号六八ページ、傍点勝部)搾取や抑圧というマルクス経済学の概念は、前近代的な方法なのか、先進資本主義国では現在、資本による搾取が行なわれていないのか。マルクス主義のABCにかんする、こうした指摘は、揚げ足とりとなる恐れがあるのでこのへんに止めたい。しかしこれに類するマルクス主義の経済学および政治学の初歩的知識に首をかしげたくなるような用語や論点はさきの「反体制労働運動とは何か」に無数に存在する。ヤクザ映画の讃美、「勝った負けたを言うではないぞ」、「全力でやった」ことをわかってほしい、という甘ったれた心情吐露から始まって、ベトナム、アメリカの黒人、日本の沖縄、部落、欧米の学生、チェコの人民の六つだけに世界の「反人間的な抑圧に反対して真正面から闘っている部分」を限定する、非科学的断定など、文句のつけたいことは山ほどあるが、きりがないのでこのへんで止めておこう。 要するにふたをあければ、たわいない総括であった。だからその具体的戦関的再生が現在なお「学者評論家」に依存する小サークルの研究集会を出ないのは当然であろう。 結 語 わたくしの日本構改運動にたいする総括は、すでに軌跡(本誌第五号)と各グループの総括の批判の中で展開しているので、繰り返す必要はあるまい。 一、理論において、構改論を社会主義革命論として全体的に把握すること、二、この理論と実践との間にその媒介項として運動学をうち立てること、三、したがって運動の指導主体−「新しい党建設」の問題と意識的にとりくむこと−これがわたくしの結論である。 新左翼は玉砕し、社会党は社民に徹し、共産党が革命ぬきの議会主義的「構革主義」に右傾化し、日本構改派小グループがすべて四散している現在、なお現実は、正しい指導を欲している。この雑誌自体、同人全体がこれからとりくまねばならないのは、それぞれの分野における構改理論の運動学の構築と運動指導センター(「新しい党」の萌芽)の建設であろう。これはまた別のテーマに属するので、一応小稿はここでうちきる。 |