民学同の歴史・体験・思い出文書  No.2

同盟建設五周年おめでとう> 
           <第二代委員長>
        
「民主主義の旗」第53号 1968年9月16日

 僕が同盟委員長として活動していた六四年半ばから第四回大会までの時期は、同盟が大阪を中心とする地方的同盟から全国化への展望を切り開いていく過渡期であった。当時の同盟は、過渡期故の特殊な困難さの中にあったか、同時に全学連分裂以後も唯一統一を保持していた大坂府学連の大衆運動の力量を背景に全体として輝かしい上昇線を辿っていた。六・一九憲法調査会答申阻止闘争(於京都、六千)十一、十二原潜寄港阻止闘争(於神戸、六千)等は同盟が指導した最大の闘いであった。
 平和と平和共存、反独占民主主義″を立脚点とし単一全学連再建の指導的中核部隊″として結成された民学同の強さは、その前提そのものの中にあった。同盟がその組織論の中で繰り返し明らかにしてきた通り、帝国主義段階後期としての国独資の段階は、広範な大衆が反独占の戦列に加わる客観的必然性をますます明白にしており、そこにこそ戦闘的民主主義者(今日の民主主義は、本来戦闘的である)の結集体としての政治同盟の存在理由があったのである。民学同もまた同じ心然性に導かれた学生同盟であり、それはその前提そのものからしても、共産主義次元の意見の相違を乗り越えた戦闘的民主主義者の単一学生同盟への方向性を当然のこととして有していたし、現在も有している。民学同が、大衆性、統一性、科学性、戦闘性--総じて民主主義を、自己の獲得すべき組織性格としていることの根拠はこの点にある。
 だが、これらの組織理念は、それを公式に確認し決議することのみでは現実性と転化しえないことは明日である。同盟の獲得すべき組織性格(組織理念)は、不断に実践の中で検証され、その中からしか実現しえないことは同盟活動五年間の経験そのものが示している。
 結成後一年の当時の同盟は運動の上昇線に規定され、しかも基本的に共通の政治経験をもつ同質的集団として形成されていたので、同盟の獲得すべき組織性格と現実の到遠点とのギャップは表面化しなかった。しかし、同盟の全国化の過程では、異なる経過と政治経験をもつ部分が多数戦列に参加してくるのであり--それ自体は、同盟の前進の証左であるーそのときに、同盟の組織理念は実践の試練の前に立たされ、その中で現実性を獲得していくのである。
 今春発生した同盟からの共労党派の脱落は、それまでの一連の政治方針上の対立の所産であり、余りにも同盟の基本的立脚点に関わる分野からの偏向であった故に同盟は全体としてその分裂を阻止しえず彼らが別個の「民学同」を結成するという不幸な結果を辿った。
 その後の共労党派の止めどなきネオ・トロツキズムへの傾斜を見るとき、分裂は不可避であったとの感が深いが、しかし、このような問題は、同盟がこれから一層発展していく過程で再び起り得ることである。それ自身は確かに学生同盟の限界性の中に一半の理由をもつものであり、またそう語ることは容易であるが、その限界性を認識した上で、なおかつ、戦闘的民主主義者の結集体としての政治同盟の積極性を確認するわれわれは、問題をその点に留めておくことはできない。必要なことは、今後も起りうるであろう意見の対立を共通の政治的実践を通じて解決していくことであり、それをなし得るだけの大衆運動次元の力量と組織を強固なものとして確立することである。それは決して直線的な過程ではないが、その過程ではじめて、大衆性、統一性、科学性、戦闘性--総じて民主主義としての組織性格は、真に現実性を付与され同盟の党派性として定着するであろう。
 いま同盟は、今春の不幸な事態にもかかわらず、着々と組織力量を回復し、全国的に上昇線をたどりつつあるときく。結成当時の同盟員がほぼ皆無に近くなり、新指導部によって今後の運動が担われようとしている同盟の現段階は、四大会当時と、客観情勢は根本的に異なるとはいえ、多くの類似点をもっている。おそらくは、当侍に数倍する困難さが存在するのであろうが、政治、組織方針の正しさが堅持される限り、同盟は全国学生戦線の統一の体現者として登場しうるであろう。
 同盟の創生期を担い、その後も長く全国委員会会に関係していた者としては、同盟の更なる発展を望み、確信すると共に、そのためになしうる限りの協力をしたいと考えている。
 全国の同盟員諸君のご健闘を心から祈る。

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