民学同文書 No.3

【歴史】 民学同十五年の軌跡
              元大阪府学連委員長  松 原  敬
        民学同理論政策誌「新時代」第9号(1978年5月)より

 民主主義学生同盟の誕生は、私達にとっては、急速な流れの中の、いわば必然的な出来事でした。
 日々要請される大衆的自治会運動前進への苦闘、大衆運動の力によって、からくも統一を堅持していた大阪府学連の闘い、全国的統一への拠点としての関西三府県学連の共同闘争、極左緒潮流のセクト主義・冒険主義との闘い、そして民青同盟内における民族主義とセクト主義に対する闘い、これらは、多くの先輩や学友のよき指導と援助にささえられていたが、現在の民学同の仲間が苦闘し、前進する姿と共通のものであった。
 民青同盟内における私達の柔軟で頑強な闘争によって、共産党中央の学生戦線分裂方針(平民学連結成方針)を多数によって否決、これに対する大阪府委員会や、党中央学対の一方的介入による私達の除名決議、数カ月後の除名不確認、府委員会直属同盟員への移行、そして組織的断絶、等々(当時、私達除名の先頭にたった民青大阪府委員会副委員長北島は、その後五年程前の赤旗に写真入りで、入党以来一貫して警察のスパイであったという除名発言が行なわれた)−これを背景に、民学同は結成された。
 民学同の誕生は、平和と反独占民主主義、大衆運動の統一と統一戦線を、なによりも重要なこととして、登場したのは必然的なことであった。
 この小論は、一九六三年九月一五日に結成された民主主義学生同盟が、大阪府学連を指導し、全国学友に共通課題にもとづく共同闘争の大胆な呼びかけを通じて、「左」右の日和見主義と闘い、自己を鍛え、全国的に成長を遂げた第四回大会までの闘いの歴史と教訓について述べた。民主主義学生同盟の仲間の諸君、並びに全国の民主的学生諸君の闘いの糧になれば幸いである。

 民学同の結成は、何よりも大衆運動のるつぼの中から、大衆闘争そのものの要請として提起された。
 一九六〇年日米安保条約反対闘争後の、全学連(全日本学生自治会総連合)の分裂、各都道府県学連の解体、学生運動の沈滞後も、一貫して統一を堅持し、政治的暴力行為防止法案反対闘争、大学管理法案反対闘争、米原潜寄港阻止闘争、等々、平和・民主・学生生活擁護の大衆関争を力強く推進してきた大阪の学生運動に依拠して、民学同は結成されたのである。
 この間の事情について、民学同第二回大会常任委員会報告は、次のように述べている。「わが同盟は、その綱領的文書『結成趣意』において、平和共存、日本の民主的革新、全学連再建の旗を高く掲げている。この基本的立場こそわが同盟が、現在の学生運動の混乱を止揚し、その真の発展を勝ち取る最も先進的を部隊であることを明確に示すものである。わが同盟はほかではなしに、あの時期に結成されたことの意義については次のことがいいうる。学生運動の危機がもはやゆうよできないところまできたこと、そして民主主義的青年を代表すべき民主青年同盟の指導部の多数がますますセクト的分裂主義的、民族主義的傾向を深め、ついには平民学連結成によって学生運動の発展と全学連再建の最大の障害と化したこと、さらにかかる危機的状況にあって原則的な大衆闘争を展開してきた大阪府学連に対して、民青=平民学連派は、執ような分裂活動を行っていたこと、そしてこの任務を遂行するためには、これまで我々が行なってきた大衆団体を通じてのもしくは個人的マニュファクチュア的な連絡ではもはや限界に達し、新しい飛躍がー広範な民主主義的学生の結集を可能にする強固な同盟の結成−が必要とされていたことである。このような学生運動の現状にあって、平和共存と民主主義、真の大衆闘争の統一の立場を貫徹する大衆的部隊はわれわれをおいてほかにないこと、われわれのこの判断が正しかったことは結成大会後の情勢の進展そのものが証明している」
 それは、学生運動の危機と分裂を一層押しすすめる左右両翼の日和見主義との闘いであった。このことについて民学同第一回大会「現情勢と当面の任務に関するテーゼ」は次のように強調している。「全学連の分裂の原因は、共産主義者同盟=社学同、革命的共産主義者同盟=マル学同など次々登場した諸政党派によって、全学連中執、地方学連、自治会にそれら諸党派の「革命」の路線が、しかもまったく勝手きままを誤った「革命」の路線が直接おしつけられたことに、そしてそれら極左小児病的・セクト的路線を承認しない自治会の代表を大会その他から暴力的に排除したことに、全学連・地方学連・自治会の組織内民主主義の極端な破壊に、一言にしていえば、諸党派による大衆組織の私物化にあった。
かくして学生の共通の利益を守り、平和と民主主義のために広汎な学生が結集すべき全員加盟制の自治会は多くの大学で破壊された。
これらの党派は浮き上り、ますます細分化し、政治的に堕落した投機分子の小集団にかわっている。」
 これらは必然的に、全国的に統一された広範な統一闘争、日本の学生運動が誇りうる巨大を全国的統一行動、共同行動をまったく不可能にしてしまい、全学連の基礎的単位たる自治会組織そのものの危機をまで招来したのである。
 一方、学生運動の中においては「歌って踊っての民青」とさえいわれた民青指導部は、共産党の指導と引きまわしによって、一九六三年米英ソ核実験停止条約を「ペテンだ」「毒まんじゅうだ」とする中国毛派の見解を全面的に支持し、平和・原水禁運動分裂の先兵となりつつ、学生運動の中に、自治会組織そのものの中にまで、分裂組織の結成に乗りだした。
 「一九六二年七月結成された平民学連は、この混乱に拍車をかけ、全学連の分裂をますます押し進める方向に作用している。平民学連はその指導部をセクト的民族主義的冒険主義的分子によって占拠された日本共産党・民主青年同盟によって直接指導されている自治会・サークル・個人の連絡組織として結成されている。彼等は一方において、「だれでも、どこからでも」「いかなる要求でも」というまったく無内容な.身の回り主義的なスローガンを掲げつつ、一方では共産党・民育の民族主義的セクト的政策を直接自治会に押しつけ、意見の違う人々をすべて敵視し、修正主義者、トロツキストを追放しない限り、全学連の統一はありえないと、問題をまったく逆さに立て、「修正主義者」「トロツキスト」狩りに狂奔している。」(同上「テーゼ」)
 民主主義学生同盟は、以上のような情勢の下で結成されたのである。それは、平和共存・反独占民主主義・統一戦線の旗を高く掲げた「広範な民主主義的学生の結集を可能にする強固な同盟」として結成されたのである。
それは誕生の当初より、大衆闘争の防衛と発展、統一をなによりもひとみのように第一義的に重視する大衆的政治同盟として結成されたのである。
 当時すでに、平和共存・反独占民主主義を掲げながらも、共産主義青年同盟や共産主義学生同盟、あるいは社会主義学生戦線(フロント)等を名乗っていた人々が、現実の大衆闘争・統一戦線の要請とは別個なところから組織路線を出発させたものとは、決定的な相違をもっていたといえるのである。

 「大阪府学連二七五〇(阪大一五〇〇、大工大四〇〇、市大四〇〇、学大一五〇、経大一五〇、女子大・関大その他一五〇)、京都府学連二六三〇(立命一五〇〇、京大五〇〇、同大四〇〇、京学大一〇〇、京医大一〇〇、京工繊三〇)、兵庫県学連二〇〇、その他五〇、総計五六〇〇余の学友を結集して開かれた 『六・一九改憲阻止・日韓会談粉砕全関西学生総決起大会』は、改憲阻止勢力の健在を高らかに証明するとともに関西学連結成に向けての前進を勝ちとる巨大な集会として大きな成功を収めた。」(「民主主義の旗」16号)
 この六・一九京都円山公園音楽堂に結集した関西三府県学連続一行動は、岸・佐藤に代表される極右冷戦反動グループの胎頭、憲法改悪の動きに鉄槌を与えると同時に、分裂と混乱の中で停滞する学生運動に対し、五八年警職法反対闘争以来の学生の大集会として圧倒的成功を収め、全国の学友に、学生運動への、その大衆的基盤への大いなる確信と連帯を呼び戻した。
 このようを大阪府学連を中心とする関西学生の統一した闘いは、学生戦線の全国的統一闘争を強力に推進する軸となり、原潜寄港阻止闘争において、ついに東京においても三五〇〇名の隊列を築き上げるほどの無党派活動家の登場をもたらすに至ったのである。
 民主主義学生同盟は、「セクト的利害でなく大衆闘争を追求する以外に全学連再建と学生運動統一の道を切開くことはできない。」 (第二回大会常任委員会報告)との基本方針のもとに、これらの闘いの献身的な推進者となると同時に、自らの大衆的同盟への飛躍と全国的同盟への前進を勝ちとるべく多くの努力と闘いを推進する。
 民学同第二回大会は、「大衆的同盟への飛躍のために」と題して、「我々は広範な学生を結集しなければならない。そのためには、我々の活動が意識の高い活動家だけを対象としたものであってはならない。我々のすべての情動−宣伝、煽動、活動形態等々−が同盟に結集しうるすべての学生を対象としたものでなければならない。従って、@セクト主義を払拭すること、A全戦線分野で活動すること。」を特に強調している。
 そして同時に、「平和共存・反独占民主主義、関西学連の再建で一致できる政治同盟との強力な統一指導部を結成しなければならない。」として、東京教育大を中心に東京において大きな役割を果たしていた共産主義青年同盟、法政・立命・神戸大を中心とするフロント(社会主義学生戦線)との協議機関、並びに統一指導部の確立、全国的単一学生同盟結成への共同の努力を呼びかけるのである。
 共青については、「共産主義青年同盟の諸君を、我々は平和と民主主義のための闘争における兄弟的同盟者として考えているばかりでなく、現代の基本的諸問題についての見解が一致しており、きわめて近い将来、組織的に統一する。そして出来うる仲間と考えている」(第二回大会報告)と評価したのである。
 そして統一指導部結成のために「わが同盟は、あらゆる努力を行なったが次の諸点で会議が不成功に終ったことを確認せざるを得なかった」として、民学同第三回大会報告(六四年)は、「統一指導部の組織形態について主要には共青との不一致があった。共青は将来にわたる問題としても、民主集中制の指導機関ではなく、協議機関的・調整機関的をものとして統一指導部を位置づけていた。それは運動の要請にそわないものであったことを明らかにし、具体的には、共青の諸君の関西学連結成についての消極性、全学連再建のもつ意義についての軽視を指摘し、統一指導部結成のための交渉は一時中断されたものである。
 共青は一九六二年一月東京準備会、同二月教育大支部結成により公然化したのであるが、当初は政治路線についても民学同と多くの共通点を持ち、統一闘争・共同行動を積み重ねてきたのである。がしかし、その名称に体現される組織性格・組織論については、共青結成準備過程より、日共内・民青内において内部闘争を継続し、かつ大衆闘争の先頭に立っていた我々は、多くの批判的意見と同志的忠告を行なっていたのである。

 共青は、六二年一月の東京都準備会結成総会において、「共青とはどういうものか」として「第一にそれは、共産主義運動の一環であるという前提を明確にすることが最も重要である」ことを強調し、同時に、「しかし、共青は、ほとんどの場合に、共産主義について全く知らないか、ややぼんやり知っていても実際の行動の中でしっかりした信念にまで固まっていない青年が対象である」と、まったく矛盾に満ちた組織性格を明らかにするのである。このような組織路線と、「反独占社会主義革命を目指す前衛党建設を目的意識的に目指う」という結党路線、「軍縮世代、生産代議制、自主的世界観の形成」という政治路線は、それぞれが全く混乱したものとなり、闘いの存立基盤、運動の内的根拠をまったく無視した、彼ら自身の言葉によると「指針なき後退戦」によって、数年後にはそれぞれの支部は独立同盟化し、消え去っていかざるを得なかったのである。このような過程は同時に、フロント(社会主義学生戦線)においても進行した。
 民学同は結成以来一五年の過程で、「プロレタリアートの階級的見地を学生の中で代表する」としたプロレタリア学生同盟の分裂をはじめ、数度の苦い経験を経ながらも、大衆的政治同盟として一層の発展を積み重ねてきている。
 今再び、民学同の名称、形式、性格、目的、 「反独占民主主義の実現」「科学と民主主義の理論」「民主団体との自主的協力」等について、 「プロレタリアートの党派的見地」からすれば、まったく妥協的表現であったとして、この制約を取り除くことを茶番劇とも知らずに実演しようとしている無責任なデモクラート派OB諸君が存在する時、そのような愚行は破産をしかもたらさないことを同志的に忠告せざるな得ないであろう。

 全国的大衆的政治同盟へ
 「一九六三年九月一五日、大阪の地に登場した民主主義学生同盟は、その後、東京・京都・岡山等に建設され、今や全国津々浦々の学園に燎原の火のごとく燃え拡がろうとしている。大阪においてともされた一点の火花はもはや消すことのできない大きな焔となりつつある」 −六五年一月一五日、同盟の全国化、三月の全国大会に向けて呼びかけられた「全国学友へのアピール」は、冒頭このように述べ、「全国同盟として登場する民主主義学生同盟−それは層としての学生運動の指導的中核部隊であり、大衆性・科学性・戦闘性・民主主義に貫かれている組織である−は輝かしき全学連第三創世期を必ずや担うであろう」として、すべての民主的進歩的学友の共通の事業として、全国的大衆的学生同盟の建設を呼びかけたのである。

 全国に拡大する闘いの輸
 すでに、このアピールに先立ち、六四年四・一七ゼネスト破壊への共産党・民青指導部の犯罪的役割に対する党・同盟内外での闘争を経て、岡山大学支部が結成され、短期間の内にその大衆的影響力を確立し、自治会指導権の確立にまで達しようとしていた。さらに同年十一月には、京大・同志社大を中心に京都民主主義学生同盟(準備会)が結成された。京都民学同(準)は、その行動綱領において 「われわれは、この重大な任務を実現すべく学生戦線に結成された民主主義学生同盟の先進的闘いを高く評価し、その趣意と規約を基本的に支持する。民主主義学生同盟をこの京都の地に建設し、東京をはじめとする全国の大学・学園のすみずみで民主的な学生を結集し、名実ともに単一の全国学生同盟に発展させることはわれわれの急務である」と宣言している。
 これらの闘いは同時に、東京においても、共産党内民青同盟内闘争を経て中央大学に民学同が結成され、すでに大衆的影響力の確立へ一歩踏み出していた神奈川大学支部とともに、同盟の全国化をめぎす首都での闘いが着実に開始され、明大・東理大・教育大・東洋大・早大へと、支部結成・拡大の闘いが展開されていくのである。
 冒頭の「全国学友へのアピール」は、このような闘いを背景として、大阪・京都・岡山・東京を中心とする民学同全国(準)委員会の結成によって発せられたものであった。民学同第四回大会は、このような経過を経て、六五年三月全国大会として開かれたのである。

 民主的学友の共有財産
 これらの闘いの中で明らかなように、民学同が他の政治諸党派と違って特徴的な事の一つは、共産党の評価とも連なる民青同盟の評価である。第四回全国大会においても、「結成趣意」の中であらためて確認されているように、民学同は、民青を「日本の民主的青年を結集し、代表すべき民主青年同盟」として評価し、かつ、「一部指導部の民族主義・官僚主義・組織内民主主義の破壊により、民主的青年の要求を反映しえなくなっている」こと、また、「青年の先進的部分が民主青年同盟から組織的に排除されている」こと、そして「民青一部指導部のセクト主義、分裂主義は青年戦線の統一と学生運動の正しい発展と全学連再建の大きな障害になっている」ことを明らかにしている。
 同盟第四回全国大会は、これらのことを踏まえつつ、「同盟の基本的性格の徹底と同盟の全国化のために当面次のことが課題である」として、第一に「我が同盟は全国のすべての民主的・良心的学友の共有財産となるべき性格を名実ともに明らかにするためには『先進的学友は民学同に結集せよ』では全く不充分である。それは『すべての民主的学友は民学同に結集しよう』というスローガンによって置きかえられなければならないことを強調しつつ、民青評価に関連して次のように確認している。
 「民主青年同盟の中で献身的・良心的に闘っている部分(それは全国に広汎に存在する)との接触を話し合いと連帯を深め、共同の闘いを粘り強く追求し、これらの学生が学生運動の統一と高揚のために我々と共に努力するよう働きかけ、民青指導部のセクト主義・分裂主義・プチブル民族主義の克服という共通の課題のために闘うこと。民青同盟の中にはいまでも全国で最も多数の戦闘的でまじめな青年が広範に組織されていることを決して忘れることはできない。この評価と他の潮流とを区別する大きな特徴である」
 現時点における日共・民青指導部の一層の民族主義と議会主義・セクト主義への下落の中で、評価はより一層厳しくされて当然であるが、空文句的な革命党建設や小型共産党的青年同盟論が横行している時に、この原則的見地をあらためて豊富化することが要請されているといえるであろう。   (つづく)

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